群馬県高崎市にある「群馬県立近代美術館」。
緑と自然豊かな公園の中にあるすっきりとした外観と、美しいピロティが印象的。
内観はさっぱりとしたシンプルな空間なのに、壮大ささえ感じ、作品や装飾によってこの洗練とした空間が効果的。
この建物を作った磯崎新は、12平方メートルの立方体を美術空間と考え、立方体の集合によってこの建築を設計しました。
立体によって構成だとは一見単純のようにみえますが、
それは磯崎が多くの日本の建築や都市を作ってきた師・丹下健三を乗り越えようとする試みで、
【1】一方的に与えるのでなく建築や作品を見たものが自発的に考えてそれぞれの理想像を思い描くような表現を追求し、
【2】「日本」的なものが崩壊しつつ世相をどのように乗り越えるかの一つの答えを出し、
【3】立方体というシンプルなもので構成されたものの可能性を見出すことによって乗り越える複雑な過程を経ての結論でした。
【1・自発的に理想像を描いてもらう演出】
1970年大阪万博において、「太陽の塔」がある万博の中心である「お祭り広場」の演出を磯崎新がしています。
「デメ」ロボットというオープニングで動いた巨大ロボットも磯崎新は設計しているように、磯崎新は最新のテクノロジーを駆使した表現をしようとしていました。
最初は、高分子やエレクトロニクスの技術を使って、参加者がその技術と触れ合う事によって自発的にそれぞれの理想像を描いてもらうような仕掛けを狙っていたのですが、「太陽の塔」という原始的な図像の目立つ塔が建ってしまい、一方的に与える会になってしまい、磯崎新にとって万博は一つの挫折でした。
ただ、建築家である磯崎新が電子装置の設計を担当したのは意外かもしれませんが、1968年にイタリアにおいて、電子パネルに映し出された像を回転させ、未来の都市を明るいものだけでなく「廃墟」などのイメージも含意させ、色々とその装置と観客が触れ合う事でそれぞれの未来の都市を描いてもらうなんて催しも行っています。
磯崎新は、建築家であるけれど、建築以外の芸術など色々の要素との関係を模索したというところが特徴的です。
【2・日本的共同体の崩壊】
大阪万博で磯崎新は挫折を味わいましたが、実は岡本太郎や磯崎の師でもある丹下健三も大阪万博で挫折を味わい方向転換しています。
それは、その後の1971年三島由紀夫事件が最も印象的に表しています。
岡本太郎や磯崎新や丹下健三は、日本と言う国家の共同体を意識して作品を作ってきましたが、その根拠たる「日本と言う国家共同体」が曖昧になってきたためです。
1968年のイタリアで磯崎は電子パネルを使った装置による作品展を行っていますが、そのとき中国の文化大革命の影響で起きたヨーロッパの学生運動によって、開催を1ヵ月送らされている経験があるようです。そのときから、国家とデザインの在り方を色々考えることになったようです。
【3・立方体の可能性】
群馬県立近代美術館は立方体をベースに作られているけれど、それは磯崎の1964年のN邸から始まっています。
磯崎新の師である丹下健三は、日本的家屋の構成比例をコンクリート使って表現することで「日本」を演出するという手法を使っていましたが、それを乗り越えたかったようです。
その後の大分県立図書館でも、正方形を使って成長する可能性のある建物を作っています。
そして、大阪万博の挫折から、旅に出てイタリアのコモにあるテラーニのカサ・デル・ファッショの建築をみて、立方体の可能性と「いつの時代でも主流になるのは、ちょっと甘口で、容易に理解できるものばかり」と確信しています。
こうして、政治や文化とは切り離した「手法」を中心に考えることを見出し、「群馬県立近代美術館」の建築をしました。
■磯崎新の群馬県立美術館建設までのバイオグラフィ■
1931年大分で生まれました。
1944年頃、中学の時、勤労動員された際、空爆により、海峡を越えた都市が消滅するシーンに合いました。おそらくこの経験などから、未来の都市を描く際、明るいだけでなく、廃墟などのイメージを折り重ねるようになったのだと思います。(※3)
1950年東京大学工学部建築学科入学しました。
廃墟になったままの爆心地に立ち、そんな理不尽なものの生成に関わりたいと思い、建築を設計することを志しました。(※3)
1954年、そして東京大学院丹下建三研究室に入りました。
研究室でありながら、設計をメインで活動していたようです。丹下健三はこの時はまだ副教授で、1957年に教授になっています。丹下はコンクリートで日本の家屋の木割のプロポーションを再現する技法をメインに扱っていたようです。(※3)
1957年には、3歳下の黒川紀章が京都大学の 西山 夘三 の元で研究していたのを、丹下の下で学びたいと入学してきています。ただ、磯崎は積極的に設計を手伝ったようですが、黒川は手伝いを拒否し研究に没頭していたようです。丹下は基本的に典型的な西欧型の建築家で、建築の設計と技術しか議論しなかったため、設計や技術以外の方面からアプローチしようとしていた磯崎と黒川は少し異質な感じだったようです。(※1)
1957年現在の新宿ホワイトハウスの設計を描く、1年間ネオ・ダダグループの拠点となったようです。磯崎は図面を引いただけでほとんど建築に携わっていませんが、磯崎の初期の現存する作品で、「ル・コルビュジエのシトロアン住宅 (鉄筋コンクリートの出現によって可能になった、壁を薄くした量産型住宅。後に近代建築5原則に繋がっていく作品) 」の影響を受けているようです。(http://sumaiinteriorhosue.seesaa.net/article/435314441.html 参考)
磯崎は、美術館の無限に成長するデザインなどル・コルビュジエに多く影響を受けているような作品を作っています(N邸や大分県立図書館、群馬県立近代美術館など)。この新宿ホワイトハウスから、ル・コルビュジエは強く念頭にあったようです。(http://sumaiinteriorhosue.seesaa.net/article/435314441.html 参考)
1960年
丹下健三研究室で東京計画1960年に関わりました。
後に三島事件などで日本という国体を問う事に色々考えた磯崎でしたが、大学院生の時期に起こった安保では、デモには行ったようですが特に自主性のあるものではなかったようです。(※2)
日本世界デザイン会議
建築家の坂倉準三(ル・コルビュジエの元で学ぶ)や丹下健三という人たちが中心になって、1960年に世界からあらゆる分野のデザイナーや建築家を招いて議論しようという、日本で初めてのとても大がかりな国際会議が企画されました。
その会議の中心的なテーマを議論するテーマ委員会の委員に、黒川紀章など何人かの若手が指名されて、1958年頃から準備を始めたようです。磯崎も企画に関与したようです。
アメリカからはルイス・カーン(ペンシルバニア大学研究棟)やミノル・ヤマサキ(貿易センタービル設計者)なども訪れています。
ルイス・カーンは黒川紀章が後にメタボリズムの宣言ともいえる文を書いたときに名前が挙げられています。また後の建築で黒川はルイス・カーンの影響が多くあると感じます(佐倉市役所棟など)。
メタボリズム
黒川たち日本世界デザインを企画したメンバーたちが自費出版『メタボリズム1960』を会場で売って歩き、それによってメタボリズム運動が始まったようです。
「メタボリズム・グループの起源は、1950年代の終わり頃にある。モダニズム建築を主導してきたCIAM(Congrès International d’Architecture Moderne・シアム・近代建築国際会議:ル・コルビジェが発端となり前田国男が参加)が1956年を最後に開かれなくなり1959年に終焉した頃、CIAMの若手メンバーらによる新しいグループ・Team X(チーム・テン:ルイス・カーン、丹下健三らが主要メンバー)が台頭し、世界の若い建築家らに影響を与えた。日本の若手建築家達も彼らと交流し、その影響を受けた。」(Wikipedia参照)とあり、更に「前衛的な建築運動の特徴を「メタボリズム」グループは見事なまでに備えていた。近代建築の人間主義的修正の手掛かりとしての生物学モデルを方法の中心に据えること。ル・コルビュジエの「輝ける都市」の人体モデル、丹下健三の「東京計画1960」の脊髄動物、CIAMの「都市の心臓」、そしてここでは細胞の「新陳代謝」。前の世代のモデルのとらえかたが器官(機能)や形態(静的構造)に手がかりを求めたのにたいして、ここでは細胞の働き(動的構造)に視点を移している。これを機械的な生産に直結する。それが宣言されている」(※3)とも言われていて、このメタボリズム運動は世界的な建築の動きを日本初で新たに提案した運動ともいえるのではないでしょうか。
1963年丹下健三研究室(都市建築設計研究所)を退職し、磯崎新アトリエを設立。この年に丹下は教授になっています。
1964年 大分「N(中山)邸」
こちらの建築は、群馬県立近代美術館で用いる事となる立方体を基本としてデザインした初期の作品になります。
このとき立方体を採用したのは、師・丹下健三が日本の家屋の木割のコンポ―ションをコンクリートで再現するという方法をとっていたため、そのやり方をとったようです。
そうすることによってできる光の取り方なども試行錯誤したようです。
ただ、話題にはなったものの批判も多く、磯崎自身も後年失敗作と述べています。
ただ、後の磯崎の群馬県立近代美術館あたりから始まる手法の原点ともなっていのも事実な訳で、失敗というのは住む人のことを思いやれなかったという感じの事ではないでしょうか。
現在はもともとの建物は無いのですが、秋吉台国際芸術村にて再現されており、サロンなどとしては使い勝手がよいのかもしれません。
1965年あたり、記号論を最初に学び始めました。
時代的にはソシュールなど建築以外の分野での記号論が盛んになっていたのですが、その記号論の派生で建築分野にも記号論を唱えるものが出始め、カッシーラー、パースなどを学んだようです。「都市の構造が実体よりも非実体的なものが優位に立つ状態に変わるだろうということが、60年代半ばごろの僕自身の考えでした。」とあるように建築の非実体性を考え始めたようです。そのような関係でベンヤミンのボードレート論など無意識による都市論などにも興味を持ったようです。(※2)
1966年設計の仕事もしていたが仕事が多くはなかったため、丹下研究室でスコピエのコンペの手伝いと、万博で代行をやる立場になったようです。
「地震で壊滅したマケドニアの首都スコピエの再建国際コンペに丹下健三案がえらばれた。…チームXやメタボリズムの運動でメガストラクチャーが空想的に語られたけど、紙上都市でしかなかった。…復興でなく復旧だった。」(※3)とあるように、新しい都市デザインの方法を考える大きなきっかけの一つになっているようです。
1967年出身地でもある大分県立大分図書館を竣工。
「建物を変動過程において、それを“切断”することによって、その成長性を逆説的に提示しようとした」らしく、更に「公式左翼の進歩と反動、近代芸術のユートピアへむかう未来への確信、などのアバンギャルドが挫折したといっていい。そして、おそらく唯一の基準として、ラジカルであること、が浮かびあがったように思います。…大分県立図書館は自ら「近代建築」へ提出した創業設計…清算する時期に立ちいたった感じでした。」という思いがあったようです(※2)
以前から磯崎が思い描いていた「プロセス・プランニング」という成長を想定した建築の構想の一つの実現ともなったようです。
(https://pauleta-archi.net/2016/10/30/post-249/参照)
1968年ミラノのトリエンナーレに参加して、電気における技術を使った演出を行いました。しかし、同時に中国の文化大革命の影響からパリで起こった大規模な学生蜂起が起こり、このトリエンナーレも学生に包囲され1か月開催が遅れています。
●第一回トリエンナーレ
インスタレーション(一定の大きさの部屋をくれて、それを自由に構成する)を行うため参加し、タイトルは「グレンターナンバー(大量生産、大衆化社会といった量の増大がもたらすデザインの変質をとりあげる意図)」(※2)で、環境構成は『エレクトリック・ラビリンス』(電気的迷宮)という「パネルが観客を赤外線でキャッチして回転ドアのように反応する装置を作り、「広島の廃墟の上に未来都市がまた廃墟になったというモンタージュ」をコラージュして「当時は、バラ色の未来論が大はやりでしたが、バラ色でない別の未来というか、そういうものを都市の状況として示す。言うならば、都市はつくっても必ず廃墟化するにちがいないとする、僕がいくつかそれまで発表してきた考えをもういっぺん整理したわけですが、文化革命の動向に触発されて、かなり政治的な衝動をあたえうるように考えたつもりでした。」(※2)という意図を込めた内容でした。
この祭典も文化革命と同時期であり、その影響で一か月ほど占拠されたようです。「エスタブリッシュメントが生み出した一つの制度の中でできあがっているものだ、とそれだけの理由で占拠されたわけです。」(※2)
そして「この経験で、僕が考えはじめたことは、≪デザイン≫そして≪建築」の成立する社会的根拠についてです。…デザインを通じて社会に反抗する、反論するということを仮にやろうとしても、デザインがもともと工業社会によって産出されたものであったわけですから、内部的な変革も一切合切御破算にして、束にして始末されてしまう。「文化革命」の意図がこの工業社会を根底から否定しようとする運動であったので、この関係性がはらんでいた矛盾はタコが自分の足を喰うような事態になって」(※2)しまったようです。
1970年、『建築の解体』という本にまとめた連載を71年まで書きました。
三島事件
11月その前に彼の自作自演の映画『憂国』を二編見ていたようです。
三島と全共闘の対話で、おまえらが天皇を認めれば手を組めると言っていたのを、ある種のラジカリズムとしてとらえていたが、事件によりショックを受けたようです。
大阪万博のお祭り広場を丹下健三と共同で手掛け、その経験に挫折していたさなかに事件が起こり、さらに気分が落ち込んでしまったようです。
この時期は福岡にいたようです(万博時は福岡から大阪に通っていた)。
「東京一点集中批判という議論があって、建築家は都市に所属すべきである、地方都市であっても都市に所属すべきである、という理屈をたてたのです。ルネッサンスの建築家がフィレンツェに所属したみたいに、どこかの都市に所属したほうがいいとなぜか思ったんです。」(※2)とのことです。
大阪万博
大阪万博では「会場全体のマスタープラン制作、基幹施設の構想、お祭り広場演出機構の制作、その諸装置(「デメ」ロボットも設計)のデザインに5年間つき合った。開会当時は「お祭り広場テクニカル・プロデューサー」という役であった。全演出を電算機制御するシステムをつくった。(※3)ようです。
当初は、「お祭広場では、テクノロジーで巨大イベントを組み立てる可能性が実験できるではないか。…それがその後のさまざまなテクノロジー・イベントのひとつのモデルになったと思います。」「“見えないモニュメント”と呼んで、光や音や動きだけを手がかりにして、瞬間的に消えていくものだけをデザインしようとしたし、それが、六か月で消滅するところに最大の関心がありました。」「お祭り広場を見えないモニュメントと定義して、光、音、動き、など、エフェメラルなものだけが構成する空間に設営しようとした。それはテクノロジーがエフェメラルなものをよりスピーディーに生産する、という仕組みを持っているという認識があったからなんです。」(※2)という意図で演出をしようとしていました。
「「不可視」とは、現代都市の性格規定をする作業のなかでうまれてきたひとつのイメージでかつ観念なのだ。万国博の会場がひとつの都市であるならば、いっそうその「不可視性」を明瞭にする必要があろう。あきらかkにこのような意図をもって、「お祭り広場」の構想は開始したのだ。」(※3)
最初の提案(1967)では「1970年の時点において、重々しさや壮大さはすでに過去のものになっている。むしろ高分子やエレクトロニクスの技術にささえられた、微妙で、精密であり、錯綜しているが一律化し組織化されているようなものこそ、新しい質の驚きをよびおこす。
だから、諸施設は、可動性・移動性、機構化・統合化をもつことになるだろう。…これは現代の「祭り」としての万国博にふさわしく、そのうえ現代技術を駆使した装置が効果を発揮するとすれば、人間と機械が時空間のなかで一体化していくのである。」(※3)と語っています。
しかし、太陽の塔が大阪万博のメインとなることが決まり、その目的は挫折してしまいます。
「「お祭り広場」をインヴィジウル・モニュメントにするという試みは、まず、この塔が主催者である財団法人日本万国博覧会協会によって承認されたときに、いやこのような像をここに導入するという計画がなされ、その担当者がオーソライズされたときにまず敗退したといっていい。」「工業社会の論理として、近代建築は一貫して、偶像的なイコノロジーを拒否してきたし、20世紀前半の万国博においては、巨大テクノロジーの直接的な表現であるモニュメントも建造されてきたのだが、この万国博にいたって、一気に古代的祭祀性を復活させるという回転現象をあらわにした。」「情報化した社会においては、卑俗な図像の方が情報操作に有効であるという事実に基づいている。」と見解を表しています。ただ岡本太郎とは「岡本太郎と相談して、「太陽の塔」の裏側に「黒い太陽」をとりつけ光背に見たてたアイロニー」(※3)を企画したり、関係は悪くはなっていないようです。
そのため当初の提案では、参加者がそれぞれの像を描いてもらうという目的だったが、刹那的な演出の法に切り替え「コントロールの系だけでなく、広場でなされる人間の行動や演技、それをささせる各種の機械的な諸装置をとりだしてみると、場のうえに発生するイヴェント自体も、一種の人間=機械系とみたてていいであろう。」(※3)という性格のものにした。しかし「演出されたものとは、時間的に細かく動作やきっかけを決められて、フォーマルな手続きをふんで、はじめて壮大な感動が得られるという固定観念」により否定され、観客が足を踏み言えれるという「広場」の性格さえ否定されてしまい「ソフトなテクノロジーが支える空間が観客の自発性を誘発し、参加させるという構想が、管理の主導権を握った主催者たちによって、皮肉にも排除と制圧と疎外という、裏がえしの使われかたに陥ってしまった。」※3とこうして、ことごとく磯崎の目的はへし折られ、挫折として繋がっていくことになるようです。
大阪万博で有名人同士の取り組みを紹介します。
●「西山 夘三(京大時代の黒川の師)」と「丹下健三」の作業
「未来都市のモデルと位置付けられる万博会場には、その核として「お祭り広場」が据えられた。この日本都市に特徴的な「お祭り」と西欧都市が独自に形成した「広場」(CIAMの都市の心臓も広場)をいきなり連結するネーミングは、当時会場計画を立案していた京都の西山 夘三のチームと東京の丹下健三のチームの作業のうちで西山 夘三の側から提案されたものだった。」(※3)これ以降日本のテーマパークや博覧会の中心は「お祭広場」が使われるようになったようです。
●岡本太郎と丹下健三の考え
「岡本太郎の「日本再発見」は近代国家づくりにひきだされた古い型の「日本」をその辺境から批判する仕事であった。丹下健三は「新日本建築様式」を大東亜建設のための至上命令として受けとったことへの反省として、「日本」を消し去る試行をつづけてきたはずではなかったのか。」「日本万国博のマスタープランの図面を引きながら、お祭り広場の軸のむこうには何も置くまい。ランドマークの塔だけでいい。と考えていた。そのど真ん中にニョッキとばかりに地縛霊のような塔が出現した。位置を指示したのは丹下健三である。提案したのは岡本太郎である。テクノロジーだけにしぼり込む予定と考えた構図が見事に破れた。両社とも確信犯であった。」(※3)とこの二人によって企画されたものが、磯崎の当初の目的を崩壊させてしまったことを回顧しています。
開会後は、磯崎は戦前「日本」の解体を行ってきたのに、万博にはそんな雰囲気を呼び覚ましてしまったような気がして、ナチスのアルベルト・シペーアと自身を重ねています。
●挫折に関しての回顧
「大阪のEXPO‘70が終わった時、私は深い挫折感を味わったと記した。最近になって、この時挫折したのは私だけでなく、岡本太郎も丹下健三も同様だったと思うようになった。岡本太郎はメディアへ舞台を移して爆発の人となった。丹下健三は中東の王侯から呼ばれて仕事を始めた。」※3と回顧しています。
これらの挫折は身を寄せるほどの日本の共同体の崩壊ではないかと磯崎は考えています。
1971年 「68年ではなく、おそらく71年ごろが最大の危機であった」(※2)としていて、文化大革命の影響より、万博や三島事件の影響の大きさを語っていて、デザインの放棄とものづくりの葛藤が表層化したようです。
群馬県立近代美術館
「福岡相互銀行」完成したころ「群馬県立近代美術館」の仕事がくるようです。
「立体フレームだけで、つまりコンセプチュアルなシステムだけで設計を始めた。…あの時破壊し解体しなければ、一歩も進めないと思いこんだ相手が「日本」だった。…私はこの先達たちの逆へと跳ばねばならない。」「この時私は、「日本」から学んだものを消そうとした。日本の絶妙な比例体系を立方体フレームだけを用いることに限定することで、その消去を遂行しようとする。自己言及性という逆説的思考法を1868年の騒乱の中から学んでいた。…圧倒的に見えた「共同体というものの力」が失われ、零へと還元されない限り、一歩も動くことができない、そんな状態に追いつめられてもいた。だから私は、裸の立体フレームに向かっての、やみくもとも見える還元を開始した。…私は、丹下健三の体現していた「日本」へ同じような訣別をするべき時がきたと考えたのだった。(※3)
とあるように、「群馬県立近代美術館」は磯崎にとって大きな転換期にあたるようです。
「群馬県立近代美術館」は「1.2mを基準とした立方体フレームの集合体=美術品を取り巻く額縁に例えられた空洞」(として構成要素12mを基準とし増殖が可能とした(1994シアター棟1998現代美術棟増築している)。※mmag.pref.gunma.jp参照)を想定して設計しています。
また、「群馬県立近代美術館」のその立方体の集合の設計のきっかけとなったのは、N邸の可能性の根拠を得ようとして出た「2つの旅」に起因するようです。
「万博後は20年に渡って支持協力してきた丹下から自立する時がきたように感じていた。
その後、これ(N邸)を建築と呼べる実例があるという見たてから、以下の二つの建築を訪れるたびに出る。
①ストックホルムのグンナー・アスプルンドによる「森の火葬場」(1940)
:古典主義の丹下的な演出と似ていると感じる
②コモにあるテラーニのカサ・デル・ファッショ(1936)
:「ブルネッレスキはすべての構成の背景に立方体を潜ませてあった。これが丸裸にされて、露出する。私はこれをコンセプチュアルなフレームへの還元と見ることにした。」(※3)
とあります。
特にテラーニは感銘を受け、「テラーニはファシストであり、丹下は国粋主義者であるが、磯崎は政治的イデオロギー化的文脈から切り放し、つまり逆に相対化し同一のレベルに引き出してみることは可能にみえるが、彼らの方法を可能にした共同体が不在ではないかと問う。」たように、立方体を扱う方向性を模索しているのと共に、万博の挫折の再考をしています。
マニエラ(手法)
『空間へ』という60年代をまとめる本を書くうちから「手法論」を書く事を思いついたようです。
71年夏に初めて使ったようです。
「16世紀の間にマニエリストが正統なルネッサンスを見たのと同じ立場に立たざるをえないのではないか、おくれてきたジェネレーションだ、ということでした。近代建築に対しておくれてきたジェネレーションだからマニエリスムの立場を取らざるを得ないだろう。」という手法の価値をマニエリスムの時代から見出しています。
更に「僕が建築をつくるということは、社会的、歴史的要素、オンテクストを一切切断した挙句でも、最低限のところで建築と繋がるという部分があるのではなからおうか。その探索の手段であるというふうに思ったわけです。ですからあえて社会性、有用性を排除するという方向に、ロジックとして、行ってしまった。…そのとき(事件が起こったとき)に有効であるか否かということで、政治的言語としての建築の意味が問われる。しかし、それは結果であって目標ではない。そういうような組み立てをしていたように、いまでは思うんです。」(※2)と「手法」の回顧を行っています。
ダウン後、「手法」を見出してから、71年から75年ぐらいはものすごく多産になったようです。
こうして磯崎は、自分自身の道を確立し始めていったようで、「群馬県立近代美術館」は丁度その始まりであったといえると思います。